祈りの部屋
集まることが難しくても、共に祈ることを忘れないでいたいと思います。
み言葉に導かれつつ、互いのため、諸教会のため、この世の様々な人々のために共に祈りましょう。
現在祈祷会は、下記の通り、オンラインと対面を併用して行っています。
第1,3,5水曜 オンライン 午後8時25分から
第2,4水曜 教会で 午後2時から(Zoom併用)
エレミヤ書37:1〜10
今日読んだ箇所は、ユダ王国最後の王となるゼデキヤ時代の話しです。彼はヨヤキムの子コンヤに代わって王位に就きます。先々代の王であるヨヤキムは第1回目のバビロン捕囚が起こる直前、バビロン軍がエルサレムを包囲している最中になくなりました。あとを継いだのはコンヤという人です。彼の名は列王記ではヨヤキンとなっています。彼は王位に就きますますが、彼が王だったのは3ヶ月間でした。王となってから3ヶ月後、彼はバビロンに降伏し、高官や兵士、様々な職人たちと共にバビロンに連れて行かれました。そのあとバビロンによって王位につけられたのがこのゼデキヤです。彼は21才で王となり11年間国を治めます。はじめはバビロンに従いますが、やがて反旗を翻しました。そのため、バビロンは再び軍隊を派遣し、エルサレムを包囲することになります。39章によると、バビロンの王ネブカドレツァルが全軍を率いてエルサレムに来たのはゼデキヤの第9年10月のことで、町の一角が破られるのは第11年の4月9日とされています。したがっておよそ1年半の間、エルサレムはバビロン軍によって包囲されていたことになります。その間に1度バビロンが包囲を解いて退却するときがあります。それが37:5、6で語られていることです。そのころに起こったことが34:8以下に記されていました。包囲が解かれる前にゼデキヤは民と契約を結んで奴隷の解放を宣言したけれど、包囲が解かれたのを見て宣言をなかったことにし、解放した奴隷たちを再び奴隷に戻すということが起こり、エレミヤはそれを非難します。奴隷解放を取り消したのは、エジプトが自分たちを助けてくれると考えたからで、それはエレミヤからすると間違った期待に過ぎないからです。ちょうどそのころのことが37章で改めて語られています。
1,2節は時代設定の説明で、ゼデキヤが王となった事情について説明しています。それは今お話ししたとおりです。彼はバビロンに連れて行かれたヨヤキンのかわりとしてバビロンによって王位につけられました。ですから彼はバビロンの言うことを聞かないわけに行きません。ですが数年たって彼はバビロンに反旗を翻します。それで2節では彼も家来も国の民もエレミヤに語る主の言葉に聞き従わなかったと言われています。しかしそれにも関わらず政治的な状況としては事態が好転していきそうな局面を迎えていました。4,5節にあるとおり、エジプトが軍隊を派遣したということが聞こえてきたためにバビロンが包囲を解いて退却していったからです。その状況を見たゼデキヤや彼の家臣たち、そしてエルサレムの人々はどう思ったでしょうか。先にお話しした奴隷解放の取りやめということに表れているとおり、これで助かったと考えたのだろうと思われます。これでまた以前のような日常が戻ってくる。バビロンに支配されず思い通りに暮らせる日々が訪れる。そんな期待が膨らんだのではないでしょうか。その中で、ゼデキヤはエレミヤのもとにユカルとシェファンヤを遣わして、我々のために神に祈ってほしいと頼むのでした。
彼がそのように願ったのは、彼の中にエレミヤを重んじようとする気持ちがあったからでしょう。もしこれが先々代の王であるヨヤキムだったらと考えるとどうでしょう。ヨヤキムはエレミヤに対する深い憎しみや怒りを抱えている人だったということが先週読んだ箇所にも現れていました。もし彼なら、バビロンが退却していくのを見たらここぞとばかりにエレミヤを攻撃したのではないかと思います。それこそただちに彼を捕らえて処刑したかもしれません。しかしゼデキヤはそうしませんでした。むしろエレミヤに対して神に祈ってほしいと願うのです。エレミヤに対してそんな接し方をするのは、ゼデキヤの中にエレミヤを重んじようとする気持ちがあるからだと考えられます。だから、状況が変わったように見えるこのときにもう一度神にお伺いを立ててもらって、今の状況にあった新しい預言の言葉を語ってもらおうと考えたのではないでしょうか。それがエレミヤを守ろうとする配慮からかどうかは分かりませんし、たぶんそこまで考えてはいないのだろうと思います。ただそれでもエレミヤの言葉自体はある程度認めていて、自分たちの抱いている期待が間違いのない確かなものだということを裏付けてもらえたらと願ったのではないでしょうか。
それに対するエレミヤの答えはそれまでと何も変わらない厳しいものでした。6節以下にその答えが記されていますが、神はエジプトは帰っていき、バビロンが再び帰ってきて町を滅ぼすとおっしゃいます。バビロンが退却したということは事実ですから、このタイミングでエジプトが軍勢を派遣してくれたことは紛れもなく奇跡であって、神による助けだと考える人もいたでしょう。それは自然だと思います。けれど、そのような見方は的はずれだと神はおっしゃいます。カルデア軍は必ず我々のもとから立ち去ると言って自分を欺いてはならないと9節で言われています。カルデア軍が去って自分たちは解放されるのだと考えることは自分を欺くことだと神はおっしゃいます。自分を欺くというのは、この場合、普通に考えるなら、本当はカルデア軍が去ることはないと分かっているのに、一時退却したことを見て「これでもう大丈夫だ」と自分を安心させることと言えます。しかし、人々の中に「カルデア軍がこれで去るようなことはないだろう」という考えがあったかどうかは分かりません。むしろ多くの人はそんなことは考えていなかったのではないか、むしろこれでだいじょうぶだ、助かったと本気で思っていたのではないだろうかと推測します。なぜなら、ここまでエレミヤの言葉を真摯に聞いてきた人はそれほど多くはいなかったからです。もし人々がエレミヤの言葉を受け入れていたのだとすればバビロンが退却したのを見ても心から安心できなかったでしょうし、それ以前にとうの昔にバビロンに降伏していたはずです。しかし王をはじめとして人々の頭の中に降伏するという選択肢はないように見受けられます。どうにかしてそれだけは避けたいというのが多くの人の本心だったのではないでしょうか。だとすれば、バビロンが退却するの見てもまだ安心できないと考える人はあまりなく、むしろカルデア軍は必ず我々のもとから立ち去るという考えの方が多くの人の本心だったのだろうと思います。それで言えば、彼らは決して自分を欺いてはいません。それでも神がこうおっしゃるのは、神がこれまで語ってこられた言葉によって恐れを抱き、その魂が砕かれることこそ本当の意味で彼らの持つべき本心であるはずだからです。本当のあるべき彼らのあり方は神の言葉の中に示されています。しかし彼らはそれをごまかし続けてきました。けれど神は今も彼らの魂が砕かれることを願って語り続けておられます。その言葉の中にこそ彼らのあるべき姿があります。だからごまかさないで神の言葉の中に示される本当のあるべき姿を見つめなさいと神はおっしゃっておられるのです。
その点で言えば、ゼデキヤにはその本心を取り戻す可能性が残っていたと言えるかもしれません。彼はエレミヤの言葉を全く拒否しているわけではありませんし、むしろエレミヤに対して好意的な姿勢を示しているからです。ですが彼はエレミヤの言葉をその通り受け入れて悔い改めることをしませんでした。2節で言われているとおり、彼は神の言葉に聞き従わないことを選んでしまうのです。そんな彼のことを考えながら、わたしはヘロデ・アンティパスのことを思い浮かべました。彼は洗礼者ヨハネの首をはねたガリラヤ地方の領主です。マルコによる福音書6章によれば、彼は自分とヘロディアの結婚を非難したヨハネを捕らえましたが、ヨハネが正しい聖なる人であることを知って彼を恐れ、保護し、当惑しながらも非常に喜びながらヨハネの教えを聞いていたと言われています。しかし、誕生日の祝いの席でヘロディアの娘からヨハネの首がほしいといわれ、心を痛めながらも首をはねさせます。自分では決して望んではいないのにヨハネの首をはねなければならなくなったのは彼が体面を気にしたからではあるけれど、そのおおもとにあるのはヨハネの言葉を聞き続けていながら悔い改めなかったことです。ヨハネが語ってくれる神の教えを喜んで聞いていながら、その言葉に従って生きることは選びませんでした。本当は彼の前に2つの道が備えられていて、そのどちらを選ぶのかが問われていたのです。いやむしろ悔い改めて命に至る道を選び取るよう招かれていたはずです。そして彼自身もそうしたいという気持ちをどこかに持っていたはずです。しかしそれを選ぶことをしませんでした。そのために、心ならずもヨハネの命を奪わねばならないところに追い込まれてしまうのです。そんなヘロデとゼデキヤが重なります。エレミヤにある程度好意や理解を持っていながら、その言葉に従って進む道を選び取ることまではしません。そのために、彼は滅びの道を進んでいく他なくなってしまうのです。神の言葉を畏れをもって聞くことが求められていると改めて感じさせられます。神は苦難の中でもわたしたちに語り続けてくださいます。その言葉の中で、わたしたちに何を選ぶよう求めていらっしゃるのかを正しく聴き分けることが出来るようになりたいと思います。それができるために、わたしたちは普段から祈りつつみ言葉に触れ、神がどのようなお方なのか、そして神と共に生きるということがどういうことなのかを繰り返し学び、考えていたいと思います。
《今週の祈祷主題》 「新しい歩みを始める人のために」
3月が年度終わりとなり4月から新しい歩みを始める人たちがいます。その歩みが祝福のもとに始められ、主にあって守られながら進められていくようお祈りください。
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