祈りの部屋
集まることが難しくても、共に祈ることを忘れないでいたいと思います。
み言葉に導かれつつ、互いのため、諸教会のため、この世の様々な人々のために共に祈りましょう。
現在祈祷会は、下記の通り、オンラインと対面を併用して行っています。
第1,3,5水曜 オンライン 午後8時25分から
第2,4水曜 教会で 午後2時から(Zoom併用)
エレミヤ書32:26〜44
エレミヤがアナトトの畑を買ったことにまつわる部分の最後にあたります。この前のところでエレミヤは神に対して率直に疑問を述べていました。アナトトの畑を買うことは、やがてこの場所でイスラエルの人々が土地の売買を行い、それぞれの土地を所有するようになることを示す象徴的な行為でした。エレミヤはエルサレムが包囲され、まもなく陥落しようという瀬戸際でなぜこのようなことが告げられるのか理解できずにいました。エルサレムは敵の手に渡されるというのがこれまでエレミヤの語ってきたことです。もちろん、彼の語ったことはエルサレムの滅び一辺倒だったわけではなく、新しい契約といった将来を展望するようなことも語っています。それで言えば、神が将来の救いについてお語りになることを不審がる理由はないように感じます。それでも神に問いかけずにおれなかったのだとしたら、それは彼が今は滅びについて語らねばならないときだと考えていたからではないでしょうか。彼は預言者として召されたはじめのときから北から訪れる脅威について語ってきました。それがバビロンによる侵略という形で具体的になってきたとき、エレミヤはそのバビロンに従うことが神のご意志だと語りました。それを聞いた多くの人はエレミヤを非難し、攻撃します。第1回目の捕囚が起こる直前まで王だったヨヤキムのときはエレミヤは死にあたる罪を犯していると告発されました。第1回目の捕囚のあとユダ王国最後の王となるゼデキヤの時代には、逮捕され命を奪われそうになりますが、かろうじて助けられ監禁されます。そのような苦難の中で、エレミヤ自身も苦闘しながら神の裁きを語り続けてきました。その語り続けてきた通りのことが起ころうとしています。それはイスラエル自身の罪が招いた結果であって、当然起こらねばならないはずのことでした。それが実際に実現しそうになっているそのときに、神は将来の回復について示すようお命じになったのです。このときエルサレムは風前の灯のような状態でした。そういうときだからこそ救いの約束を語ることもあり得るのではないかと考えることもできます。しかし、今はイスラエルがこれまで長い間重ね続けてきた罪に対する裁きが行われ、皆がそれに服さねばならないときですし、エレミヤは繰り返しそう語ってきました。その裁きを経てこそ新しいときが始まるのでです。神はそのように考えておられるはずです。だからエレミヤは、今は救いの約束ではなく裁きを語らねばならないときだと思っていたのかもしれません。もしここで救いを語ってしまうと、安易に救いを語った偽りの預言者たちと同じように、人々を自分の罪と向き合うことから遠ざけることになってしまわないか。それでは神のお下しになる裁きが正しく受け止められず、人々は結局悔い改めを避けたままになってしまうのではないか。そんなふうに思えたのではないだろうかと推測します。
そんなエレミヤに対して神がお答えになります。その初めはご自身がまことに神であられることの宣言です。「わたしは生きとし生けるものの神、主である。わたしの力のおよばないことが一つでもあるだろうか」とおっしゃいます。神はご自身がすべてのものの支配者であると宣言なさいます。これは、神がなさることの根拠はただご自身のうちにのみあることを示しています。誰かに何か言われたからイスラエルを滅ぼそうと考えたわけでなく、神がご自身の意志にのみ基づいてこの事態を引き起こしておられるということです。その上で改めて、エルサレムをバビロンの手に渡すとおっしゃいます。それは神が自らの意志で行うことであるとおっしゃるのです。それもまたはじめから分かっていることと言えるでしょう。エレミヤもそのように考えていたはずです。しかし、改めてこのように神が宣言なさるのを聞くと、エレミヤの訴えは実は神のなさることに対してエレミヤ自身の思いに基づいて反論しようとしていることなのではないかと思わされます。エレミヤにはエレミヤの考えがあるというのは当たり前のことです。それを抜きにただ命じられたことだけを行うようなロボットになることを神は欲してはおられません。けれど、エレミヤが自分の思いに基づいて神のなさることに異を唱えることもおゆるしにはなりません。神は神ご自身に基づいて御業を行われるのだからです。エルサレムがバビロンによって滅ぼされることは間違いなく神のご意志に基づいています。それは、エレミヤが何を思い、考えたとしても、神ご自身の業として必ず行われます。そのことがまず宣告されているのです。
そのあと、なぜエルサレムが滅ぼされなければならないかという理由が29〜35節まで述べられています。語られていること自体はエレミヤが理解しているはずのことと何も変わりません。神はこれまでもずっと同じことを語ってこられましたし、エレミヤもそれは了解しています。ただ、そのことをお語りになった上で神は「しかし今や」と36節で語り始めておられます。それは、神の気が変わってユダに下す裁きに手心を加える気になったということを示しているわけではありません。エルサレムをバビロンによって破壊させ、イスラエルを滅ぼすことも神のご意志に基づくことです。それと同じように、いったん滅んでなくなってしまい、世界中に散らされるご自分の民を憐れみ、もう一度約束の地に連れ戻すことも神ご自身の意志に基づいていることをこれは示しています。イスラエルが犯し続けてきた罪に対する神の怒りは少しも変わりません。神は決して妥協しようとはしておられません。ですが、ご自分の民に対する神の思いは裁くことにおいても変わることはありません。神はご自分の選んだ民を最後まで覚え続けられます。それが神が彼らと交わされた契約でもあるのです。もちろん、イスラエルがこれほど神に背き続けて契約を破ってきたのですから、契約自体を無効にすることもおできになるはずです。神がそうなさったとしても、イスラエルは決して文句を言うことはできません。けれど神はそうはなさいません。彼らはやはり神にとって宝の民であり、愛すべきご自分の民なのです。それは単なる感情というのでなく、神ご自身の真実に根ざした愛ゆえのことでしょう。神は彼らがご自分との契約に基づいて生きる民となることを願っておられるし、そのことを目指して働いておられるのです。だから神はただここに連れ戻すというだけでなく、そのときには彼らに一つの心と一つの道を与えて常にわたしに従わせるとおっしゃいます。31章で述べられていた新しい契約の中で、今度は戒めを石の板ではなく彼らの心に刻むと言われていたことと同じです。誰から教えられるまでもなく神を畏れ、喜んで神に聞き従うものに造り変えて約束の地に住まわせると神はおっしゃるのです。神は彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かに彼らをこの土地に植える、と41節で言われています。神は彼らと共に歩む神であることを心から喜びとしておられるのです。神が彼らに語り、それを彼らが聞いて神に答える。そんな交わりの中で彼らと共に歩むことを神は真剣に願い求めておられます。それこそ神が本来願っておられることです。エルサレムを滅ぼし、イスラエルが積み重ねてきた罪に対する裁きをお下しになるのも、本当は彼らが悔い改めて新しくされ、神と共に生きる新しい人に造り変えられることを願っているからです。エレミヤは目の前のことに集中していて、そんな神の本心にまで思いが及びませんでした。だから神は彼に対して「わたしは神である」とおっしゃって、ご自分の前に畏れをもってひれふすことをお命じになります。それはまるでヨブに対してご自身をあらわし、ヨブをご自分の前にひれふさせたことに似ています。わたしたちの目や心は、神のご意志の奥深くまでは届きません。だから分からないことも多々あります。だからこそ信頼し、畏れをもって神の前に身を低くすることが求められます。もちろん、分からないことを分からないといって神に祈ることは間違いではありません。ありのままに神の前に立つことに対して神はお怒りにはならないでしょう。エレミヤに対しても、神は怒っておられるというよりは、ご自身をあらわし、神として栄光によって彼を立つべきところに引き戻しておられるということのように思います。それがわたしたちの本来のあり方なのです。神は彼らに恵みを与えることを喜びとするとおっしゃいます。それは彼らを甘やかし、何でもいうとおりにしてやるということではありません。神は神としてお立ちになります。その前に、わたしたちを正しく人として立たせてくださるのです。神はそのために何一つ惜しむことなく与えてくださるお方であることを、わたしたちはこのクリスマスの時期に改めて思い起こします。そんな神のみ心を知って、神の前に畏れと感謝をもって立つ者でありたいと思います。そして神が与えてくださる恵みにあずかって、一つの心を持って一つの道を歩む一人一人とされたいと願うのです。
《今週の祈祷主題》 「クリスマス礼拝のために」
次の主日はクリスマス礼拝です。わたしたちの救い主がこの世に来てくださったことを記念する礼拝を多くの方々と共にすることができますように。また祝会、讃美礼拝を通して神が与えてくださった恵みを共に喜び、分かち合い、心から神を賛美することができますように。
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