祈りの部屋
集まることが難しくても、共に祈ることを忘れないでいたいと思います。
み言葉に導かれつつ、互いのため、諸教会のため、この世の様々な人々のために共に祈りましょう。
現在祈祷会は、下記の通り、オンラインと対面を併用して行っています。
第1,3,5水曜 オンライン 午後8時25分から
第2,4水曜 教会で 午後2時から
エレミヤ書31:21〜26
今日読んだ箇所の前半はその前からの続きで北イスラエルの散らされた人々に向けての言葉です。母ラケルに対する慰めが語られ、神が北イスラエルの民に用意してくださる希望が示された後、エフライムの悔い改めと彼らに対する神の深くて熱い思いが語られました。今日の箇所ではそれらを受けて「帰ってくるように」という呼びかけが語られます。
その初めに道しるべや柱を立てるようにと命じられています。その道しるべは、遠く離れたところにいる人々が故郷に帰っていくための道を示すものです。その道は「あなたが通っていった道」と言われています。つまり、イスラエルから遠くの国々へ連れて行かれたときに通った道ということです。そのときその道は人々にとって悲しみや苦悩を抱えながら歩いた道だったでしょう。しかし今度は故郷へ帰るための道となります。ただ、その道に柱を立て、道しるべを置くようにと言われます。それはつまり、帰るための道がそこにあるということを知らせるためであり、そうする必要があるということです。実際、北イスラエルが滅んでから、エレミヤが預言者として働き始めるまでには約100年過ぎています。諸外国へ移された人々はもう何世代も経ていて、かつてどの道を通ってきたかを知っている人はいません。でも普通に考えて、イスラエルに向かう道がどこにあるかくらいは誰でも分かることでしょうし、たとえ知らなくても人に聞けば必ず往き来している人はいたはずですからきっと分かります。それでも道を示すために道しるべが必要なのは、道は知っていても実際にそこを通ってイスラエルに帰ろうという気持ちになる上でためらいがあるからではないでしょうか。
22節に「いつまでさまようのか、背きさった娘よ」という言葉があります。18節以下にエフライムの悔い改めの言葉が語られていて、その中で「立ち帰らせてください。わたしは立ち帰ります」ということも言われていたのですから、ここで「いつまでさまようのか」と言われるのは不思議に感じられます。ですが、自分の罪を認め、神に帰りたいという願いを持っていながら、それが実際に神に立ち帰ることにつながらないこともあり得ます。たとえば、自分の罪深さを真剣にとらえるあまり、自分には帰る資格がないと考えることもあるでしょう。あるいは、神に立ち帰りたいと言いつつも、しかし実際にそうしたときの大変さを想像してためらうことや、そこまでして帰らなくてもいいかもしれないと思うこともあるでしょう。神に立ち帰ろうとして立ち上がり、一歩踏み出すということは、わたしたちにとってそれほど当たり前にできることではないように思われます。だからこその道しるべではないでしょうか。帰る必要があるし帰りたいとも思うけれど実際に立ち上がることにはためらいを覚えるということは、結局はそれまでのままでい続けることに不自由さを感じないし、そのままでも十分と思える部分があるからでしょう。実際、バビロン捕囚が起こったあと何十年かしてバビロンがペルシアに倒されたとき、ペルシアの王であるキュロスは諸国からつれてこられた人々に帰還をゆるしますが、イスラエルの人々のうちカナンに帰ったのはほんの一握りで大半はそのままバビロンに残ったと言われます。エルサレムへの憧れは持ちつつも、バビロンにいても生活はできているわけですし、それまでの生活を続けながらそのままそこで良心的に生きていればそれでいいのではないかと考えることも分かる気がします。ユダより100年以上先に滅ぼされ、世界中に散らされた北イスラエルの人々にとってはよりいっそうそう思えたのではないでしょうか。神の呼びかけを聞きながらもなかなかそれに答えることへと立ち上がることが難しいということは、わたしたちにもあることだと感じます。呼びかけに応えることは自分が変わることを意味します。わたしたちはその変化にどうしても不安を感じるのです。神はそんな人々に「いつまでさまようのか」と語りかけます。本人にすればさまよっているつもりはないかもしれません。しかし、神からご覧になるとき、神の招きに応えないままでいることは失われたままでいることと同じなのです。放蕩息子のたとえを思い起こすのですが、あの息子は父の家から遠く離れたところで身を持ち崩してどん底まで落ち込んだとき、我に返って父のもとへ行きました。もしあの息子が我に返ったとき、心を入れ替えてまじめに働くようになり、仕事で成功して一財産こしらえたとしたらどうだったでしょう。父親はそれならそれでかまわないと言ったでしょうか。きっと違います。父親はあの息子が帰ってくることを待ち続けていました。失われたままでいずに、自分の子として共に生きるひとりであってほしいと願っています。神はそのように、わたしたちが神なしでも自立して立派にやっていけるようになることを喜ばれるわけではありません。わたしたちは神なしでは道に迷い、自分を失ってしまうことをよく知っておられるから、ご自分のもとに立ち帰ることを願って呼びかけられるのです。
そして神は、そんな神のみ心に気付かず、呼びかけを聞いて帰りたいという思いを持ちながらもさまようわたしたちの心をご自身に向けさせるために、招きに応えて立ち上がるときにあずかる神のみ業について語られます。22節の後半で「主はこの地に新しいことを創造された。女が男を保護するであろう」と言われています。この「創造する」という言葉は神だけを主語として使われる言葉です。神にしかできないこと、その意味で本当に新しいことが起こると言われ、それが「女が男を保護する」ことだと言われます。この言葉の理解には定説はないようです。マリアが主イエスを胎に宿すことを指していると理解した人もいますし、男性優位の社会だった当時のあり方が逆転して弱い立場のものが上位に来るということとも理解されます。また、女性的な愛の力が男性的な武力に勝るととる人もあるようです。「保護する」という言葉は「包む、包含する、取り囲む」といった意味です。女性が男性を取り囲む、あるいは包み込むということが何を意味しているのか、はっきりとは分かりません。ただ、それが神ご自身の創造の業によって起こることとして述べられているということですから、それまでには全く存在してなかった本当の意味で新しい何かを指しているということは間違いありません。そしてそれが女性による男性の包含あるいは保護ということで表現されているわけですから、少なくとも、この当時の常識であった男性優位のあり方がひっくり返るということを含んでいるのだろうと思われます。それがどういう意味での逆転なのか、たとえば男性上位だったのが今度は女性上位に変わるということか、人びとの心のあり方なのかといったことについては分からないというしかありません。それでも、力や強さといったものが弱さを押さえつけたりあるいは支配するということが止んで、むしろ弱さが強さを包み込んで覆うようになるというイメージは浮かんできます。そういった何らかの逆転が起こることが語られます。それは言い換えれば恵みによる支配であり、恵みがいっさいを覆うことでもあるのではないでしょうか。神による新しい創造の業によって生み出されるのは、誰かが自分の力を誇示し、それによって他を支配するような世界ではなく、神がわたしたちを顧みてくださるその慈しみの中で、それが基準となって形づくられていくような世界、神がただご自身の愛に基づいて一切のものを治めてくださることに沿ったものとなった世界が想像されます。神はそのような新しい出来事を生み出してくださることが示されることによって、ためらいが克服され、帰ることを躊躇する人びとが立ち上がる力を得ていくのです。
そしてそこには北イスラエルだけでなくユダの人びともまた呼び集められ、共に神をあがめる民となります。それを示しているのが23節以下です。ユダの人びとも再びエルサレムに集められて神をたたえるようになる様子が示されています。そのとき集められる人々には農民や、群れを導く人つまり羊飼いもおり、わたしは疲れた魂を潤し、おとろえた魂に力を満たすと言われます。それは、22節で「女が男を保護する」と言われていたのと同じような状況を表していると考えられます。全イスラエルが共に神のもとに集められて神をあがめるときがくるという幻です。そしてそのとき神が彼らを一人一人を顧みてそれぞれを豊かに養ってくださるというのです。神の用意してくださっている未来とはこのようなものであることが示されます。だからためらわないで招きに応えなさいと神は勧めておられるのではないでしょうか。確かに、その将来にたどり着くまでの間には様々なことがあるかもしれません。実際、エルサレムに帰って来てからのイスラエルの人びとの歩みは困難なものでした。それでも神が約束してくださった将来は必ず来ることを心にとめながら、神の備えてくださる道を歩んでいくのが神の民なのだと思います。わたしたちはその道が主イエスご自身であることを知らされています。その道を通ってわたしたちはいつか神のもとへ行くのです。そして、ここで言われているように神を共に喜びたたえる群れに加えられます。そのための道を歩んでいることを心にとめて、神が備えてくださり、招いてくださる道を歩んでいきたいと思います。
《今週の祈祷主題》 「神学校のために」
次の主日は神学校日です。校舎の移転とこれからのあり方について検討されていますが、教会に仕える教職者がふさわしく育てられていく神学校であることができるように、そして何より献身者が与えられるようにお祈りください。
聖書 新共同訳 (c)共同訳聖書実行委員会 (c)日本聖書協会