祈りの部屋

集まることが難しくても、共に祈ることを忘れないでいたいと思います。

み言葉に導かれつつ、互いのため、諸教会のため、この世の様々な人々のために共に祈りましょう。

現在祈祷会は、下記の通り、オンラインと対面を併用して行っています。

 

第1,3,5水曜 オンライン 午後8時25分から

第2,4水曜   教会で   午後2時から

 



エレミヤ書30:1〜9
 今日は30章の始めを読みました。ここから31章にかけてはまた新しいまとまりになります。その始めに記されているのは、神の言葉を書き記しておくようにという神の命令です。まだ名前が出て来ていませんが、エレミヤにはバルクという弟子のような人がいます。36章を開いてみると、今日の箇所と同じように預言を巻物に書き記せという神の命令があり、それを受けてエレミヤがバルクを呼び寄せ、そのバルクがエレミヤの口述に従って巻物に書き記したと言われています。今日読んだ箇所のはじめに記されていることもほとんど同じ内容で、おそらくここに記されていることはバルクがエレミヤから聞いたことを書いたものだろうと思われます。なぜ神はエレミヤに預言を書き記せとお命じになるのでしょうか。ここで書き記されることはイスラエルとユダの繁栄が回復するという約束です。そして4節からその内容がさらに詳しく記されていきます。こういうことを書き残しておくことにどんな意味があるのでしょう。いろんなことが考えられるでしょうが、わたしが今回これを読んで思ったのは、神の言葉の確かさや真実さを明らかにするためということがあるのではないかということでした。
 これが書き記されたのは、おそらくユダが完全に滅んでしまう前のことなのだろうと思います。つまり第1回目の捕囚と第2回目の捕囚の間です。4節以下を見てみると、イスラエルとユダに臨む大きな苦しみの日について述べられています。エレミヤが働いた時代、北イスラエル王国はすでに滅ぼされてなくなっていました。同じように、南ユダ王国もバビロンによって滅ぼされるときを迎えようとしています。エレミヤはその最後に立ち合うことになるのですが、それ以前に彼は北から臨む災いについて語り、人々に悔い改めるよう呼びかけてきました。その呼びかけは聞き入れられず、バビロンによる攻撃という形でエレミヤの語った北からの災いが実現することになります。そしてエレミヤはそのバビロンによる支配を受け入れて従うようにと語りました。しかし、実際に北から迫ってくるバビロンを前にしても人々はエレミヤの言葉を受け入れることが出来ず、結局エレミヤが語ったとおり、紀元前597年にエルサレムは陥落し、第1回目の捕囚が起こります。それによってエレミヤの言葉は間違っていなかったことが証明されたことになるわけです。それでもエレミヤの語ることに反発し、抵抗し続ける人々もいました。この前に読んだ29章には、エルサレムにも、バビロンに移された人々の中にもそのような人がいたということが出て来ました。イスラエルの民がいかにかたくなであるかが分かるように思いますが、しかし結局はエレミヤの語るとおりになっていきます。第1回目の捕囚のあと王となったゼデキヤははじめバビロンに服従していましたが、後に反旗を翻したためバビロンは改めてエルサレムを攻撃し、紀元前587年にエルサレムは完全に破壊されて第2回目の捕囚が起こることになります。今日読んだ5〜7節の言葉は、そのような歴史の流れをふまえながら語られているものです。神はイスラエルとユダに大きな苦しみをもたらされます。そのときの苦しみや恐怖の大きさが5,6節の言葉に表れています。そのとき人々の間にあるのは恐怖のみであって平和はないといわれています。またそのとき味わう苦しみについて、まるで男性が陣痛の苦しみを味わっているかのような描写によって表現されています。そんなことはあるはずがないということが前提されているわけですが、どう考えてもあり得ないと言う他ないほどの大きな苦しみが臨むということでしょう。これからユダに臨もうとしている苦難の大きさは、想像することもできないほど大きいものだということです。その苦しみの大きさはイスラエルが犯し続けてきた罪の大きさの裏返しです。イスラエルはこれほどの苦しみを味わわなければならないほどに大きくて深い罪を抱えていたのでした。そのことに彼らは直面しなければならなくなります。そのとき、彼らは心から恐れおののくことになるのです。
 でもその大いなる苦しみの日はイスラエルが消滅する日とはなりません。神はヤコブに対して、ここから救い出されるとおっしゃいます。ちなみに、ヤコブという名は主に北イスラエルを指すときに用いられるものですから、この30章以下に記されていることはもともと北イスラエル王国に関する預言だったのではないかと言う人もあります。学問的にはそうなのかもしれませんが、わたしたちはイスラエルとユダについてと4節で言われていることをその通り読んで、これはイスラエルの民全体に関する預言ととらえておきたいと思います。なので、わたしの話の中で南王国のことだけを言っているように聞こえたり、反対だったりするところもあると思いますが、基本的には12部族すべてがそろったイスラエル全体について話しているつもりです。ですので、ここで語られている苦難の日は、語っているのがエレミヤですから、主には彼が目の前にしている南ユダについて語られていることだけれど、神ご自身の視野の中には北イスラエルも含めたイスラエル全体のこととして語られていると理解してよいかと思います。イスラエルは大きな苦しみを味わう日を経て救いへと導かれていく。それがここで示されていることです。すでに北王国はなくなって100年ほどたっています。南王国もまもなく滅んでいきます。それでもその苦しみの日が最後の到達点ではなく、その先に解放と再建のときが備えられているというのです。
 そんなことは、目の前で起こっていることだけを見ればとても考えられないことです。確かに、エレミヤが働いた当時、神が今すぐこの苦難から救ってくださって、自分たちの運命を滅びから救いへと転回させてくださるという人たちもいました。彼らも彼らなりに苦しみを味わっていたのだろうと思います。しかし彼らはその苦しみを自分たちの受けるべき神の裁きとしては受け止めていません。ここにあることでいえば、顔色が土色に変わり、腰に手を当てて産みの苦しみに耐えている人のような苦しみの味わい方はしていないのです。彼らは、その苦しみを自分の引き受けるべきものとしてしっかり受け止めてはいません。産みの苦しみは誰かに代わってもらうわけにはいかないものです。どうしてもその人自身が受け止めないわけにいきません。イスラエルに臨む苦しみの日も同じです。神がなぜご自分の民をこのように苦しめようとなさるのかを、彼らは正しく理解し、受け止めなければなりませんでした。この表現の中にはそのことも込められているように思います。しかし、今すぐにでも神が救ってくださると考える人たちはその苦しみを起こるはずのないものとしか理解しておらず、自分たちが受けるべきものとしては受け止めていません。それでは神が用意してくださる将来につながる歩みをすることはできません。神が求めておられることはこの苦しみを神による裁きとして受け止め、神の前に砕かれた魂をもってへりくだることです。そうするときにこそ将来の救いの日を望み見ることができるのです。その道筋を神は示しておられます。
 そしてそのように語る神の言葉は間違いなく確かであることを示すものとして、エレミヤの言葉は書き残されるのではないでしょうか。パソコンとは違って、巻物に書かれた文字は修正することが難しいものです。でも神の言葉は書き残されたとおりに実現していきます。それは間違いない確かなことであるということを、この巻物に書かれた文字は証ししているのではないでしょうか。変更がきかないということにおいてもそうですし、後に実際語られたとおりのことが起こったとき、これを読む人は改めて神がお語りになることの確かさを確認することが出来ます。その意味で言えば、わたしたちが受け取った聖書も同じです。神が古くから語り続けてこられたことは間違いのない確かなことであることをこの聖書の存在自体が証ししてくれていますし、実際神の約束は主イエスというお方において確かに実現したことを証ししてくれています。わたしたちには将来のことは分かりません。けれど、今がどのようであれ、神は必ず約束どおりの将来を備えてくださっています。そのことを繰り返し確かめながら、神への信頼に立って今を歩んでいきたいと思います。


《今週の祈祷主題》 「霊肉の健康のために」
これまでになく厳しい暑さの続いた夏でしたが、ほんの少し季節が移っていく気配も感じられます。ただ心身ともに疲れの出やすい時期でもあります。霊肉それぞれの健康が支えられるよう祈りましょう。